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新選組・平山五郎の真実|八木邸に散った片目の剣客と暗殺の裏側

安藤 澪 安藤 澪 • 更新: • 公開: • 読了約 9 分
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幕末の京都を震撼させた剣客集団・新選組。その草創期において、局長・芹沢鴨の右腕として副長助勤の要職を務めながら、夜の闇に消された男が平山五郎です。隻眼の凄腕剣士として畏怖され、最後は凄惨な粛清劇によって非業の死を遂げた彼の生涯には、多くの謎と幕末特有の政治的暗闘が渦巻いています。

結成初期の「壬生浪士組」がなぜ血みどろの内紛へ突き進んだのか。水戸藩出身とされる出自から、八木邸で迎えた戦慄の結末、そして試衛館派(近藤勇・土方歳三ら)による暗殺事件の背後に潜む冷徹な真相まで、歴史の表舞台から葬り去られかけた一人の武士の実像を紐解きます。

【出自と経歴】水戸藩の激派から壬生浪士組へ結集した生い立ち

平山五郎

平山五郎の経歴と生涯を辿るうえで欠かせないのが、幕末の尊皇攘夷運動の中心地であった水戸藩との深い繋がりです。平山は常陸国出身の郷士・浪士と伝えられ、水戸天狗党をはじめとする過激な尊攘派の気風を色濃く浴びて育ちました。

文久3年(1863年)、幕府が十四代将軍・徳川家茂の上洛警護を目的に募集した「浪士組」へ参加。このとき同郷の芹沢鴨や新見錦、平間重助らと行動を共にしています。江戸を出発して京へ到着後、発起人である清河八郎が浪士組の真の目的を「倒幕・尊皇攘夷の先鋒」だと明かしたことで事態は急転。これに反発した近藤勇ら試衛館一派と、芹沢鴨ら水戸派が京都残留を決意し、新選組の前身となる壬生浪士組が誕生しました。

平山五郎はこの旗揚げにおいて中心人物のひとりとして名を連ね、京都守護職を務める会津藩主・松平容保への嘆願や組織作りに深く関与していくことになります。

【凄腕の剣技】神道無念流を極めた片目の剣客・その人物像と評判

剣客としての腕前は組内でも屈指と恐れられていました。平山が修めた流派は、幕末三大道場のひとつ「練兵館」で知られる神道無念流です。免許皆伝の腕前を誇ったとも言われ、その太刀筋は鋭く重厚でした。

平山を特徴づける最大の要素が「隻眼(片目)」であった点です。当時、新選組の屯所となった八木邸の次男・八木為三郎の証言(子母澤寛の聞き書き)によると、平山は左目を失明しており、目つきが非常に鋭かったと記録されています。顔立ち自体は色白で鼻筋の通った美男子風でありながら、潰れた片目が独特の凄みを醸し出していました。

残された逸話から浮かび上がる人物像と評判は、寡黙で度胸が据わっている反面、酒が入ると手がつけられない一面を持つ無骨な武骨者です。八木邸の子供たちに対しては時折穏やかな笑顔を見せることもあったと伝わりますが、ひとたび抜刀すれば容赦のない冷徹さを発揮し、市中警備や不逞浪士の取締りではその剛腕を遺憾なく発揮しました。

【副長助勤の重責】芹沢鴨の右腕として京都を揺るがした軌跡

壬生浪士組が発足すると、平山は幹部職である副長助勤に就任します。これは後の新選組でいえば組長や副長に次ぐ高位であり、隊士の統率や作戦行動を任される重責でした。

しかし、平山が忠誠を誓った筆頭局長・芹沢鴨の振る舞いは、次第に京都の治安維持という名目から逸脱していきます。平山は常に芹沢の影のように付き従い、大和屋焼き討ち事件など、芹沢派が起こした数々の暴力行為や狼藉にも同行・関与したと目されています。一方で、島原の芸妓であった吉栄(きさえ)を愛妾とし、壬生の屯所に呼び寄せて寵愛するなど、刹那的で豪放な生活を送っていました。

近藤勇や土方歳三ら試衛館派が規律を重んじ、幕府・会津藩からの信頼獲得を最優先に動いていたのに対し、水戸派の粗暴な振る舞いは隊内外に深刻な亀裂を生み出していきました。

【暗殺の真相】なぜ粛清されたのか?八木邸の凶行と試衛館派の思惑

平山五郎が落命した暗殺の真相には、単なる隊内の主導権争いにとどまらない、当時の京都政局が密接に絡み合っています。

最大の最期の理由は、会津藩による「芹沢派の切り捨て命令」が下ったことです。度重なる豪商への押し借りや乱暴狼藉に業を煮やした京都守護職は、近藤・土方に対し、芹沢一派の処分を極秘裏に打診しました。会津藩の庇護下で確固たる武士集団を目指していた近藤らにとって、命令の遂行は組織の生き残りと主導権掌握のための絶対条件でした。

標的とされたのは、筆頭局長の芹沢鴨だけではありません。神道無念流の猛者であり芹沢の絶対的な防壁となっていた平山五郎、そして同じく側近の平間重助の排除は不可欠でした。平山を生かしておけば必ず激しい報復が起こる――そう判断した土方歳三らは、白昼の果し合いではなく、闇夜の不意打ちという最も確実で冷徹な暗殺手段を選択したのです。

【血塗られた八木邸】文久3年9月の惨劇と平山五郎の壮絶な最期

文久3年9月16日(諸説あり、18日とも)、悲劇の舞台となったのは壬生村の八木邸でした。この日、新選組の幹部たちは島原の角屋で重陽の節句の宴会を開き、芹沢派を泥酔させる周到な罠を仕掛けます。

豪雨が降りしきる深夜、屯所奥の十畳間には、酒に酔い潰れた平山五郎と愛妾・吉栄、隣室には芹沢鴨とお梅が眠りに就いていました。そこへ音もなく侵入したのが、土方歳三、沖田総司、山南敬助、原田左之助ら試衛館派の精鋭刺客集団です。

刺客たちは蚊帳の上から一斉に刃を浴びせました。寝込みを襲われた平山は、凄腕の剣客でありながら刀を抜く間もなく滅多斬りにされ、胴体から首を切り落とされるほどの激しい太刀傷を負って即死。愛妾の吉栄は血飛沫を浴びながらも狂乱状態で別室へ逃れ、命を取り留めています。

隣室の芹沢鴨も八木家の小机に足を取られて倒れたところを仕留められ、水戸派の巨頭二人は同じ夜、同じ屋敷の中で血の海に沈みました。享年は不詳ながら、30代前半の短い生涯であったと推測されています。

【墓所と供養】壬生寺に眠る魂と幕末史に刻まれた足跡

暗殺の翌日、試衛館派は「芹沢鴨と平山五郎は不逞浪士の襲撃によって討ち死にした」と偽りの発表を行い、八木邸で盛大な隊葬を執り行いました。自ら手を下しておきながら、表向きは武士としての体面を保ち、会津藩へ忠義を尽くした幹部として葬ったのです。

平山五郎の墓所は、現在も京都・壬生の壬生寺境内にある「新選組隊士等慰霊塔」にあります。芹沢鴨の墓碑と並び、合祀墓にその名が刻まれており、今も多くの幕末ファンや歴史研究者が参拝に訪れています。

平山五郎は歴史の勝者にはなれませんでした。しかし、水戸の激動を駆け抜け、荒波渦巻く幕末京都で「新選組」という伝説の礎となった武骨な剣客の生き様は、今なお色褪せない強烈な光と影を放ち続けています。

【平山 五郎】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:平山五郎の剣術の流派と強さはどれくらいだったのですか?
A1:平山五郎は「神道無念流」を極め、免許皆伝を得ていたと伝わる凄腕の剣士でした。左目を失明した隻眼でありながら間合いの把握に優れ、新選組幹部の中でも屈指の実力者として恐れられていました。

Q2:八木邸での暗殺当日、なぜ反撃できなかったのですか?
A2:事前に島原の宴会で大量の酒を飲まされて泥酔状態にあったこと、さらに深夜の激しい豪雨のなか、蚊帳ごと上から複数の刺客(沖田総司や土方歳三ら)に奇襲されたためです。抜刀する隙すら与えられない電撃的な襲撃でした。

Q3:平山五郎と一緒にいた女性(吉栄)はどうなったのですか?
A3:平山と同衾していた島原の芸妓・吉栄は、暗殺時に平山の血を浴びながらも運良く隙をついて裏口から脱出し、無事生き延びました。その後、事件の生々しい様子を後世に伝える証言者のひとりとなっています。

新選組の副長助勤として名を刻んだ平山五郎の歩みは、動乱の幕末期における権力闘争の過酷さを物語っています。水戸藩の血気盛んな尊攘派から壬生浪士組の屋台骨へ、そして芹沢鴨の破滅とともに八木邸の露と消えた最期。試衛館派の光の陰に隠れたこの凄腕の片目剣士の足跡を知ることで、新選組という巨大な組織の成り立ちと、彼らが背負った業の深さがより鮮明に見えてきます。

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