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向田邦子を奪った飛行機事故の真相|遠東航空103便墜落と最後の足跡

安藤 澪 安藤 澪 • 更新: • 公開: • 読了約 9 分
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昭和を代表する脚本家であり、直木賞作家としても知られる向田邦子氏がこの世を去ってから40年以上の歳月が流れた今もなお、その端正なエッセイや鮮烈なドラマは世代を超えて読み継がれています。文壇の頂点へと駆け上がり、まさに脂が乗り切っていた彼女の人生は、1981年夏の突発的な航空事故によってあまりにも唐突に断ち切られました。

当時51歳、日本中を震撼させた台湾での惨劇はなぜ防げなかったのか。事故調査で暴かれた機体の衝撃的な欠陥、多忙な合間を縫って旅立った台湾旅行の真の目的、そして現場に残された遺品や妹の手記に刻まれた最期のメッセージまで、昭和史に残る悲劇の深層を改めて検証します。

【1981年の悲劇】遠東航空103便墜落事故の概要と向田邦子急逝の衝撃

向田邦子飛行機事故

1981年(昭和56年)8月22日午前10時すぎ、台湾の空で戦後アジアの航空史上でも類を見ない大惨事が発生しました。台北の松山空港を飛び立ち、高雄へ向けて巡航高度へと上昇中だった遠東航空103便(ボーイング737-200型機)が、離陸からわずか14分後にレーダーから突如として機影を消したのです。

同機には日本人乗客18名を含む乗員・乗客110名が搭乗しており、その名簿の中に「向田邦子」の名がありました。機体は台湾中西部の苗栗県三義郷の上空およそ2万フィート(約6,000メートル)で突如制御を失い、空中分解。残骸は広範囲の山林や茶畑に降り注ぎ、生存者は一人もいませんでした。

前年の1980年に短編集『思い出トランプ』などで第83回直木賞を受賞し、脚本家から小説家へと活動の幅を広げ、日本文化界のトップランナーとして脚光を浴びていた人物の急逝報に、日本中が言葉を失いました。向田邦子 死因と当時の年齢は、全身打撲などによる即死、享年51(満51歳没)という若さでした。テレビドラマ史に不滅の足跡を刻んだ才気あふれる表現者の命は、見知らぬ異国の空で一瞬にして散ることとなったのです。

【事故の真相】なぜ機体は空中分解したのか?ボーイング737の構造的欠陥と腐食

穏やかな天候の中、離陸直後のジェット旅客機がなぜ前触れもなく空中分解したのか。事故直後はテロや爆破の可能性も疑われましたが、台湾当局および米国家運輸安全委員会(NTSB)による調査の結果、信じがたいボーイング737空中分解 原因が浮き彫りとなりました。

事故機(機体記号:B-2603)の胴体下部、貨物室の床下構造部材には、深刻なレベルの金属腐食(サビ)が進行していました。台湾の亜熱帯気候に加え、過去に機内で日常的に空輸されていた魚介類や塩蔵品から漏れ出した塩分や水分、強酸性物質が金属フレームを着実に侵食していたのです。

さらに恐ろしいことに、この機体は事故のわずか3週間前にも客室の与圧トラブルを起こし、応急修理を施されたばかりでした。飛行を重ねるごとに繰り返される客室の加圧と減圧に、腐食で強度が激減していた胴体外板が耐えきれなくなり、三義郷上空に達した瞬間、機体底部が一気に破裂。そこから一瞬にして機体全体へ破壊が連鎖し、空中分解に至ったと断定されました。徹底した点検整備が行われていれば防げたはずの、明白な人災だったといえます。

【最後の足跡】多忙を極めた作家が台湾旅行を選んだ目的

向田氏はなぜ、あの日あの便に乗っていなければならなかったのか。彼女の旅情と向田邦子 最後の足跡をたどると、表現者としての尽きない好奇心と、束の間の休息を求めていた日常が見えてきます。

当時の向田氏は、ドラマ脚本の執筆、雑誌連載のエッセイ、小説の執筆、さらには講演依頼に追われ、分刻みの過密スケジュールに忙殺されていました。乳がんの手術と術後の後遺症(右腕の麻痺)を克服し、直木賞を手にしてからも立ち止まることなくペンを走らせ続けていた彼女にとって、この台湾渡航は貴重なプライベートの息抜きでした。

向田邦子 台湾旅行の目的は、現地の古い陶磁器や民芸品の買い付け、茶藝館での中国茶の探求、そしてかねてから構想を温めていたシルクロード取材への足がかりとなる異文化体験だったと伝えられています。友人と共に台北市内の骨董街を巡り、おいしい中華料理に舌鼓を打った後、南部の高雄へと足を延ばす途上で凶変に見舞われました。好奇心の赴くまま、軽やかに街を歩いた数日間が、彼女の生涯で最後の旅となってしまいました。

【遺品と手紙】妹・向田和子の回想から紐解く作家の素顔

事故後、凄惨な現場から回収された所持品の中に、彼女の几帳面で温かな人柄を物語る向田邦子の遺品と手紙がありました。パスポート、愛用の万年筆、買い求めたばかりの雑貨とともに、家族へ宛てて投函されるはずだった絵葉書が残されていたのです。

そこには、旅の楽しさと家族を気遣う飾り気のない言葉が、独特の美しい筆跡で記されていました。事故の一報を受け、現地へ急行した妹の向田和子 妹の回想録によると、遺体確認は困難を極める過酷な現場だったといいます。その中にあって、姉の身元を特定する手がかりとなったのは、普段から愛用していた衣服の端切れや手元に残された所持品でした。

和子氏は後に、姉との思い出や共同で開いていた赤坂の小料理店「ままや」での日々、そして事故当時の壮絶な体験を『向田邦子の遺言』などの著書に詳しく書き残しています。突然の理不尽な死に直面しながらも、和子氏ら遺族が前を向き続けたことで、向田邦子の遺稿やエッセイに宿る「日常の愛おしさ」は風化することなく後世に語り継がれることになりました。

【祈りの場所】台湾・三義郷の慰霊碑と多磨霊園に眠る昭和の記憶

事故から星霜を経た現代においても、彼女を悼み、その魂に寄り添う場所が二つの地に残されています。

一つは、悲劇の舞台となった台湾 三義郷 慰霊碑(遠東航空103便記念碑)です。三義の緑豊かな山あいにひっそりと佇む慰霊碑には、日本人を含む犠牲者全員の氏名が刻まれており、今も現地の有志や日本から訪れる文学ファンによって献花が絶えません。

そしてもう一つが、東京都府中市の向田邦子の墓 多磨霊園です。著名な文化人が数多く眠るこの広大な霊園の一角に、彼女の墓所があります。墓石の傍らに据えられた文学碑には、直木賞選考委員でもあった作家・開高健氏の手による銘文が刻まれています。

「花ひらき、はな散る――」から始まる開高氏の弔文は、あまりに短く、あまりに激しく咲き誇った向田邦子という稀代の表現者の人生を鮮烈に象徴しており、訪れる人々の胸を打ち続けています。

【向田邦子の飛行機事故】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:向田邦子が亡くなった飛行機事故の便名と場所はどこですか?
A1:1981年8月22日に発生した「遠東航空103便(ボーイング737-200型機)」の墜落事故です。台北の松山空港を離陸し高雄へ向かう途中、台湾中西部の苗栗県三義郷上空で空中分解しました。

Q2:航空機が空中分解した具体的な原因は何だったのですか?
A2:貨物室床下における構造部材の重度な腐食です。過去の輸送貨物(海産物など)から漏出した塩分や酸により金属疲労と腐食が急速に進行し、客室の与圧負荷に耐え切れなくなった胴体下部が破壊されたことが原因と判明しました。

Q3:事故当時、向田邦子は何歳で、どんな作品を残していましたか?
A3:享年51(満51歳没)でした。脚本家として『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』『阿修羅のごとく』など数々の名作ドラマを手掛け、前年の1980年には『思い出トランプ』などで第83回直木賞を受賞した直後の出来事でした。

51歳という若さで空へと散った向田邦子氏。その突然の死は、日本の文学界と放送界にとって取り返しのつかない巨大な損失でした。しかし、彼女が遺した作品群――人間の弱さや滑稽さを温かく見つめた視線、日常の些細な瞬間に潜む美しさを捉えた文体――は、どれほど歳月が経過しても色褪せることがありません。

異国の空で予期せぬ悲劇に巻き込まれながらも、最期の日まで人間の機微を愛し、真摯に暮らしと向き合った作家・向田邦子。彼女が書き残した一行一行を読み返すことこそが、私たちが今できる最も真摯な追悼の形なの可能性があります。

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コンテンツディレクター 安藤 澪
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