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織田信長の墓はなぜ全国に?遺体の謎と京都・高野山の墓所を徹底解明

安藤 澪 安藤 澪 • 更新: • 公開: • 読了約 9 分
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天正10年(1582年)、日本史上最大のクーデター「本能寺の変」によって非業の死を遂げた天下人・織田信長。教科書や歴史書を開くと、京都の本能寺や大徳寺、滋賀の安土城跡、さらには和歌山の高野山奥之院に至るまで、全国各地に「信長の墓」が存在することに驚かされます。

なぜ信長の墓所はこれほどまでに点在しているのでしょうか。その背景には、燃え盛る炎の中で信長の遺体が見つからなかった歴史的ミステリーと、覇権を狙う豊臣秀吉の政治的演出、そして恩義を感じた家臣や僧侶たちによる密かな供養の歴史が深く関わっています。各地に残る墓所・供養塔の真相と、現地参拝のための見どころを紐解きます。

なぜ織田信長の墓は複数存在するのか?全国に点在する3つの歴史的背景

織田信長墓所

日本全国に「織田信長の墓」と呼ばれる場所が20カ所以上も存在する理由は、主に「遺体の不在」「政治的思惑」「武将・寺院による追善供養」という3つの要因に集約されます。

第一の要因は、本能寺で落命した信長の遺骨や遺骸が公式に確認されなかったことです。確固たる埋葬地が定まらなかった結果、信長の首や遺品を持ち出したとされる者たちが、それぞれのゆかりの地に塚や墓を建立しました。

第二の要因は、信長の後継者争いです。織田政権の主導権を握ろうとした羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、主君のために盛大な葬儀を執り行い、巨大な寺院や廟所を建てることで、自らこそが正統な後継者であると天下に宣言しました。

第三の要因は、敵味方を問わず死者を極楽浄土へ導く仏教観に基づく供養です。宗派の枠を超えて全国の高野山や寺院に供養塔が建てられ、現代に続く多彩な墓所群が形成されました。

本能寺の変で遺体はなぜ見つからなかったのか?信長の首塚・胴塚の謎

明智光秀の急襲を受けた信長は、本能寺の奥深くで自害したと伝えられています。しかし、光秀軍が寺を徹底的に捜索したにもかかわらず、信長の遺体や首級はついに発見されませんでした。

遺体が見つからなかった理由には諸説あります。信長が潜んでいた殿舎に火を放ち、大量の火薬によって遺骸ごと焼き尽くされたという説が有力ですが、近習の森乱(蘭丸)らに「遺体を敵の手に渡すな」と厳命し、密かに灰に紛れ込ませたり隠密裏に寺外へ運び出したりしたという証言も残っています。

この混乱の中で生まれたのが、各地に点在する「首塚」や「胴塚」の伝説です。静岡県富士宮市の西山本門寺には、信長の囲碁の師匠であった日順上人が首を持ち帰り、ヒイラギの木の袂に埋めたとされる首塚が残されています。また、愛知県の西尾市や岐阜県内にも、家臣が落ち延びる過程で埋葬したとされる伝承地が存在し、敗戦の混乱と主君への忠義を物語っています。

【京都】信長の遺骨が眠る?阿弥陀寺と豊臣秀吉が建立した大徳寺総見院の真相

信長の眠る場所として、歴史研究者の間でも最も議論が白熱するのが京都に位置する2つの寺院、「蓮台山 阿弥陀寺」と「大徳寺 総見院」です。

京都市上京区にある阿弥陀寺の開山・清玉上人は、信長と生前から親交が深い僧侶でした。同寺の『阿弥陀寺由緒書』によると、本能寺の変の一報を聞いた上人が塔頭の僧らを引き連れて本能寺へ急行。信長の遺骸を火葬して遺骨を法衣に包んで持ち帰り、密かに境内に埋葬したと記録されています。後年、秀吉から法要の主導権を譲るよう迫られたものの、上人はこれを拒否したとされ、現在も境内には信長とその嫡男・信忠の墓が静かに佇んでいます。

一方、京都市北区の大徳寺総見院は、秀吉が自身の権威づけのために天正10年10月に建立した墓所です。秀吉は信長の遺体がないまま葬儀を挙行するため、名工に命じて香木の一種である沈香(じんこう)から2体の信長木像を彫らせました。1体は葬儀の薪の上で荼毘に付され、もう1体は総見院の本堂に安置されたのです。総見院には信長一族の巨大な五輪塔が並び、秀吉による天下取りの出発点となった歴史の重みを伝えています。

【本能寺・安土城・妙心寺】信長を祀る主要な廟所と墓所の歴史的価値

京都や近江には、信長との直接的な縁が深い特別な廟所が複数存在します。

大本山本能寺(京都市中京区)にある「織田信長公廟」は、天正19年(1591年)に現在の寺町御池へ移転した際、信長公の霊を慰めるために建てられたものです。変の直後に焼け跡から回収された信長の太刀が納められていると伝わり、今も多くの参拝客が線香を手向けています。

滋賀県近江八幡市の安土城跡にある「信長公本廟」は、変の翌年(天正11年)、秀吉が信長の居城であった安土城の本丸跡に太刀や遺品を埋めて建立した廟所です。琵琶湖を望む雄大な石垣の頂に位置し、天下布武を掲げた信長の威容を肌で感じられる空間となっています。

加えて、京都市右京区の妙心寺玉鳳院には、信長の忠臣であった織田信忠の乳母・慈徳院が建立した織田信長・信忠父子の供養塔があります。権力闘争とは一線を画した、身内や忠臣による純粋な追悼の祈りが込められた貴重な史跡です。

【高野山奥之院から全国へ】織田信長の供養塔一覧と現地へのアクセスガイド

宗派を超えた聖地である和歌山県の高野山奥之院には、20万基を超える墓碑が立ち並ぶ参道の中に「織田信長供養塔」が堂々と鎮座しています。かつて信長は高野山を激しく弾圧(高野攻め)した過去を持ちますが、死後は仇敵であった明智光秀の供養塔とほど近い場所に祀られており、中世の無常観を象徴するスポットとして知られます。

信長ゆかりの主な墓所・供養塔へのアクセス情報は以下の通りです。

【主要な信長墓所・供養塔のアクセス一覧】

・大徳寺 総見院(京都府京都市北区紫野大徳寺町)
アクセス:JR「京都駅」から市バス205系統または206系統「大徳寺前」下車、徒歩約5分。
※春・秋の特別公開時のみ境内・信長木像を拝観可能。

・大本山 阿弥陀寺(京都府京都市上京区寺町通今出川上る)
アクセス:京阪電車「出町柳駅」より徒歩約15分、地下鉄烏丸線「今出川駅」より徒歩約15分。
※境内の墓参は通年可能(本堂内は事前予約制または特別公開時のみ)。

・大本山 本能寺(京都府京都市中京区寺町通御池下る)
アクセス:地下鉄東西線「京都市役所前駅」すぐ、市バス「京都市役所前」下車すぐ。
※境内自由参拝。大宝殿宝物館にて信長ゆかりの品を常設展示。

・安土城跡 信長公本廟(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)
アクセス:JR琵琶湖線「安土駅」より徒歩約25分(レンタサイクル推奨で約10分)。
※大手道からの登城料が必要。足場の良い靴での訪問を推奨。

・高野山奥之院 織田信長墓所(和歌山県伊都郡高野町高野山)
アクセス:南海高野線「極楽橋駅」からケーブルカー「高野山駅」へ、南海林間バス「奥の院口」または「一の橋口」下車、徒歩約20分。

【織田信長の墓所】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:実際に信長の遺骨が埋葬されている可能性が最も高い墓所はどこですか?
A1:歴史的な信憑性が最も高いとされるのは京都市上京区の「阿弥陀寺」です。当時の住職・清玉上人が本能寺の変直後に遺骸を収容して火葬した記録が寺伝に克明に残されており、遺骨が実在したとする説を多くの専門家が支持しています。

Q2:豊臣秀吉が信長の葬儀を開いた際、遺体の代わりに何を使ったのですか?
A2:秀吉は名工に依頼し、香木(沈香)を用いて信長の等身大木像を2体彫らせました。1体は葬儀の儀式の中で火葬され、もう1体は大徳寺総見院の本尊として現存し、国の重要文化財に指定されています。

Q3:一般の参拝者が訪れやすい信長の代表的な墓参りスポットはどこですか?
A3:公共交通機関でのアクセスが最も容易なのは京都市役所前に位置する「本能寺」です。また、戦国時代の空気感を色濃く感じたい場合は、滋賀県の「安土城跡」や和歌山県の「高野山奥之院」への歴訪が適しています。

織田信長の墓所が全国各地に点在している事実は、彼が後世の日本史に遺した影響力の大きさを何よりも雄弁に物語っています。遺体が見つからなかったという悲劇的な最期は、結果として秀吉による壮大な政治ショーを生み、忠臣たちの手による秘匿された供養塔を生み出しました。

京都の静寂な寺院から、石垣がそびえる安土の山城、杉木立に囲まれた高野山の聖地まで、各地の墓碑には信長に魅せられた人々の祈りと歴史のドラマが刻まれています。信長の足跡を辿る現地への参拝は、戦国最大の英雄の実像とその時代を深く味わう格別の体験となるはずです。

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コンテンツディレクター 安藤 澪
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