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桐島聡の現在の写真と素顔は?約50年の逃亡生活と最期の真実

安藤 澪 安藤 澪 • 更新: • 公開: • 読了約 8 分
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日本中を震撼させた連続企業爆破事件の重要指名手配犯・桐島聡。交番や駅の掲示板で見慣れた「長髪に黒縁メガネの笑顔の写真」から約50年、突如として浮上した潜伏の事実と最期の告白は、列島に大きな衝撃を与えました。

逃亡生活の果てに判明した現在の姿や素顔、そして長年身元を隠し続けた生活実態について、関係者の証言や取材記録をもとに、明らかになった全貌を紐解きます。

【真相】桐島聡の現在の写真は公開されている?手配写真との違いと素顔

桐島聡現在写真

多くの人が長年目にしてきた指名手配写真は、1970年代半ば、20歳前後の若かりし頃の桐島聡の姿でした。丸みを帯びた黒縁メガネに口髭、親しみやすさを感じさせる笑顔の写真は、全国の警察署や交番に掲示され続けてきました。

事件発覚後、メディアで公開された晩年の写真は、公的機関が撮影した証明写真などではなく、潜伏先近隣の飲食店で常連客や仲間と過ごしていた際に撮影された日常のスナップ写真です。公開された姿は、手配写真と比べると年相応に白髪が混じり、痩せ型の体躯に目尻のシワが刻まれた、ごくありふれた穏やかな高齢男性そのものでした。

特徴的だったメガネは外されている場面が多く、歯が抜けていたり痩せこけたりしていたものの、特徴的な鼻筋や骨格には当時の面影が色濃く残っていました。近隣住民も「あの手配写真の人物と隣り合わせで暮らしていたとは夢にも思わなかった」と語るほど、周囲の日常に完全に溶け込んでいました。

偽名「内田洋(ウチやん)」としての素顔|行きつけバーの写真と周囲の証言

桐島聡は神奈川県藤沢市南部のエリアで、「内田洋(うちだ ひろし)」という偽名を名乗っていました。周囲からは親しみを込めて「ウチやん」「うーやん」と呼ばれ、孤独に息を潜める逃亡犯というイメージとはかけ離れた生活を送っていました。

地元の行きつけのバーや居酒屋には頻繁に顔を出しており、音楽好きの一面を見せていました。店内ではアコースティックギターを爪弾いたり、海外のロックやブルースについて熱心に語り合ったりする姿が目撃されています。当時の写真には、カウンターで酒グラスを傾けながら談笑する様子が残されており、誰もが「気さくで音楽好きな初老の独身男性」として疑うことはありませんでした。

一方で、自らの過去や身の上話になると口を閉ざし、スマートフォンやクレジットカードは一切所持せず、支払いはすべて現金で済ませるなど、徹底してデジタル足跡を残さない警戒心を保ち続けていました。

なぜ半世紀も見つからなかったのか?神奈川県藤沢市での潜伏生活と勤務先工務店

約50年もの長期にわたり捜査の網を逃れ続けられた最大の要因は、藤沢市内の土木工務店での長期就職と住み込みに近い生活基盤にありました。約40年前に工務店に住み込みで働き始めた桐島は、真面目で手際の良い働きぶりから周囲の信頼を得ていました。

給与は一貫して手渡しで受け取り、健康保険証を持たず、病気をしても市販薬で耐える生活を続けていました。住まいは工務店近くの古い木造2階建てアパートで、家賃も現金払い。公的機関の手続きや本人確認が必要となる契約を徹底して排除した生活設計が、捜査機関のデータベースに一切引っかからない死角を生み出していました。

近隣トラブルを起こすこともなく、挨拶を欠かさない温厚な人柄を演じ切っていたことも、地域社会の中で怪しまれずに潜伏し続けられた大きな理由です。

桐島聡の生い立ちと経歴|「東アジア反日武装戦線・さそり」への関与と逃亡理由

桐島聡は1954年に広島県で生まれ、地元の高校を卒業後、明治学院大学法学部に進学しました。上京後の1970年代初頭、学生運動の激化とともに過激思想へ傾倒していきます。

過激派組織「東アジア反日武装戦線」の別動班である「さそり」に合流した桐島は、1975年4月に発生した東京・銀座の韓国産業経済研究所爆破事件など、複数の連続企業爆破事件に関与した疑いが持たれていました。同年5月、グループの主要メンバーが一斉検挙された直後、桐島は警察の包囲網をかいくぐり忽然と姿を消しました。

逃亡を続けた理由は、逮捕による重罪判決への恐怖だけでなく、組織への盲信や逃亡生活そのものが日常化して抜け出せなくなった心理状態があったと考えられています。

鎌倉市の病院での名乗りから死亡まで|DNA鑑定による身元確認の全貌

長い逃亡生活に終止符が打たれたのは、自身の身体の限界でした。末期の胃がんを患い容態が急変した桐島は、内田洋名義で神奈川県鎌倉市内の病院へ救急搬送されました。

病状が極めて深刻で死期が迫っていることを悟った本人は、病床の看護師や医師に対し「自分は東アジア反日武装戦線の桐島聡だ。最期くらいは本名で死にたい」と告白。通報を受けた警視庁公安部が緊急聴取を開始しました。

身元確認のため、採取されたDNAサンプルと親族のDNA型を照合する高度な鑑定が急ピッチで進められましたが、本人確認の正式な完了を待たずして、名乗り出てから数日後に鎌倉市内の病院で死亡しました。その後の鑑定結果により、親族との親子・血縁関係に矛盾がないことが確認され、警視庁は被疑者死亡のまま書類送検の手続きを取りました。

【桐島 聡 現在 写真】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:桐島聡の晩年や現在の鮮明な顔写真は警察から公式公開されましたか?
A1:警察による公式の遺体写真や晩年の正面顔写真は公開されていません。ニュース番組や週刊誌等で報道された写真は、生前に行きつけだった飲食店や地域のコミュニティで知人が撮影したプライベート写真です。

Q2:指名手配写真と実際の晩年の姿はどれくらい違っていましたか?
A2:20代当時の黒縁メガネと長髪の姿に比べ、晩年は白髪混じりの短髪でメガネをかけず、末期がんで痩せ細っていたためパッと見の印象は大きく異なっていました。しかし、鼻の形や輪郭など骨格的な特徴は一致していました。

Q3:なぜ健康保険証なしで病院を受診できたのですか?
A3:末期がんの激痛で自力歩行が困難になり、偽名(内田洋)のまま全額自己負担の自由診療として救急搬送されたためです。治療費を現金で支払う意思を示して受診していましたが、容態悪化に伴い身元を自白しました。

昭和のテロ事件を引き起こし、約半世紀もの間「指名手配ポスターの顔」として止まっていた桐島聡の時計は、本人の告白と死によって唐突に幕を下ろしました。

デジタル化が進む日本において、現金決済と地域社会の信頼関係を隠れ蓑にして逃げ切った事実は、治安当局や本人確認システムに大きな教訓を残しました。遺族への遺骨引き取り拒否など、最期まで身勝手な逃亡劇がもたらした傷跡は深く、昭和の暗部を象徴する事件として語り継がれています。

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コンテンツディレクター 安藤 澪
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