名作『火垂るの墓』や『アメリカひじき』で知られ、昭和・平成の言論界と文壇を駆け抜けた作家・野坂昭如氏。作家として直木賞を受賞したのみならず、作詞家、歌手、政治家、そして歯に衣着せぬ論客として時代を揺るがし続けた怪物がこの世を去ってから歳月が流れました。今なおその強烈な生き様と作品群は色あせることなく、多くの人々に語り継がれています。
晩年は病魔と闘いながらも、最期まで言葉を紡ぎ続けた野坂氏。彼が迎えた最期の瞬間とはどのようなものだったのか。自宅で倒れた当日の緊迫した経緯や、12年余りに及んだ壮絶な脳梗塞との闘い、そして妻である野坂暘子(ようこ)さんをはじめとする家族が明かした知られざる真相を紐解きます。
【死因の真相】作家・野坂昭如が息を引き取った直接の理由と当日の詳細

野坂昭如氏の公式に発表された直接の死因は「心不全」です。亡くなったのは2015年12月9日午後10時38分、東京都内の病院でした。享年85歳でした。
その日の夜、野坂氏は東京都港区南麻布の自宅寝室で休んでいました。午後9時頃、妻の野坂暘子さんが寝室の様子を見に行った際、いつも通り穏やかに眠っている姿を確認しています。しかし、午後10時を回った頃に再び訪れると、野坂氏の呼吸が止まり、意識を失っている異変に気づきました。
ただちに119番通報が行われ、救急隊が駆けつけて心臓マッサージなどの救命措置を施しながら都内の病院へ緊急搬送されましたが、懸命の蘇生処置も実らず、病院到着後に死亡が確認されました。苦しんだ様子や取り乱した形跡はなく、眠るように静かに旅立ったと伝えられています。
12年間に及ぶ壮絶な脳梗塞闘病生活と献身的なリハビリの日々
野坂氏の晩年は、病との長い戦いの連続でした。転機となったのは2003年5月、72歳のときに発症した脳梗塞です。一時は生命の危機に瀕し、緊急手術と集中治療によって一命を取り留めたものの、重い後遺症として左半身の麻痺と言語障害が残りました。
それまで饒舌に社会を斬り、精力的に動き回っていた野坂氏にとって、身体の自由と自由な発語を奪われた打撃は計り知れないものでした。しかし、野坂氏は決して筆を折りませんでした。過酷な機能回復リハビリに愚直に向き合い、右手での執筆や口述筆記による連載を再開させたのです。
週刊誌の長期連載コラム『サンデー毎日』の「七転び八起き」をはじめ、病床にあっても時代の空気を鋭く観察し、警鐘を鳴らし続けました。倒れてから亡くなるまでの約12年半に及ぶ闘病生活は、表現者としての執念そのものでした。
妻・野坂暘子と娘たち|作家を支え続けた家族構成と最期の肉声
壮絶な闘病生活を語るうえで欠かせないのが、妻・野坂暘子さんの存在です。元宝塚歌劇団の女優(芸名:藍とも子)であった暘子さんは、野坂氏が倒れてからの12年間、自宅での介護とリハビリを献身的に支え続けました。
家族構成は妻の暘子さんと、2人の娘(長女・麻央さん、次女・愛乃さん)です。家族全員が交代でサポートを行い、野坂氏が自宅で快適に執筆活動を続けられる環境を整えました。
暘子さんは後に著書やインタビューで、最期の日の様子について「直前まで夕食の粥を美味しそうに食べ、穏やかな表情をしていた。苦しむこともなく、本当に静かな幕引きだった」と振り返っています。長年の壮絶なリハビリ生活の果てに訪れた最期は、家族の温もりに包まれた安らかな時間でした。
『火垂るの墓』から直木賞受賞、大島渚との乱闘まで|波乱に満ちた唯一無二の経歴
野坂昭如という人物の足跡は、日本の戦後史そのものと言えます。1930年(昭和5年)に東京で生まれ、幼少期に養子に出された後、神戸で凄惨な空襲を経験しました。終戦直後の混乱期に幼い妹を栄養失調で亡くした実体験は、後に代表作となる『火垂るの墓』の原点となりました。
早稲田大学仏文科中退後、CM作詞家(「文明堂のカステラ」「伊東に行くならハトヤ」など)や放送作家として頭角を現し、1967年に自身の戦争体験を昇華させた『火垂るの墓』『アメリカひじき』で第58回直木賞を受賞しました。
その後も歌手として「黒の舟唄」をヒットさせ、参議院議員選挙に当選するなど多方面で異才を発揮。1990年の映画監督・大島渚氏の結婚記念パーティーにおいて、泥酔した状態で壇上に上がり大島氏を右ストレートで殴打、大島氏がマイクで応戦した「大島渚 殴打事件」は、野坂氏の破天荒さを象徴する伝説的ハプニングとして語り継がれています。しかし根底にあったのは、過酷な戦争体験からくる人間不信と、それ以上の深い人間愛でした。
お別れの会で語られた弔辞と遺された文学的メッセージ
野坂氏の逝去後、2016年1月に東京都内のホテルで「お別れの会」が執り行われ、作家仲間、出版関係者、政財界から約700人が参列しました。
祭壇には、トレードマークだった黒のサングラスとソフト帽を身につけた野坂氏の遺影が掲げられました。弔辞に立った親交の深い作家や編集者たちは、彼の徹底した反骨精神と、どんな権力にも屈しなかった文壇の異端児としての功績を称えました。
野坂氏が生涯をかけて訴え続けたのは、「二度と子どもたちを飢えさせ、戦火に巻き込んではならない」という極めて純粋な平和への叫びでした。脳梗塞で倒れて以降、言葉を絞り出すようにして書き残した晩年の原稿にも、戦争の足音に対する強い危機感が刻まれていました。
【野坂昭如の死因と生涯】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:野坂昭如さんの直接の死因は何ですか?
A1:直接の死因は「心不全」です。2015年12月9日の夜、自宅のベッドで意識を失っているところを発見され、搬送先の病院で死亡が確認されました。享年85歳でした。
Q2:晩年に患っていた脳梗塞の後遺症はどのようなものでしたか?
A2:2003年に発症した脳梗塞により、左半身の麻痺と言語障害が残りました。しかし懸命なリハビリにより、右手での執筆や口述筆記を駆使して、亡くなる直前まで執筆活動を続けました。
Q3:『火垂るの墓』の主人公・清太は野坂昭如さん自身がモデルですか?
A3:はい、野坂氏自身の戦争体験が色濃く反映されています。終戦直後に神戸の空襲で被災し、福井県で1歳の義妹を餓死させてしまったことに対する生涯消えない「自責の念」と「悔恨」から生まれた私小説です。
野坂昭如氏が85年の生涯を閉じた理由は、長年の闘病の末に訪れた心不全でした。しかしその最期は、自宅で愛する家族に見守られながら迎えた、穏やかで静かなものでした。
型破りで破滅的な無頼派作家としての顔を持ちながら、その根底には戦災孤児としての深い悲しみと、弱者へ寄り添う優しい眼差しを持ち続けた野坂氏。混迷を深める現代において、彼が命を削って遺した言葉の数々は、今こそ読み返されるべき重みを放っています。