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太宰治と三島由紀夫の確執!伝説の対面と「嫌悪」に潜む衝撃の真相

白石 ひなた 白石 ひなた • 更新: • 公開: • 読了約 9 分
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日本文学史において、これほど鮮烈な対比と緊張感を放つ関係性はありません。退廃と自己告白の中に人間の弱さをさらけ出した太宰治と、強固な文体と肉体美、構築された美学で時代を駆け抜けた三島由紀夫。昭和文学を代表する二大巨頭の確執は、単なる先輩後輩の不仲にとどまらず、文学観や死生観が真っ向から衝突した象徴的なドラマとして語り継がれています。

文壇に彗星のごとく現れた青年・三島が、すでに流行作家として君臨していた太宰の面前で言い放った「決定的な一言」とは何だったのか。そしてなぜ三島は生涯にわたって太宰への嫌悪と執着を抱き続けたのか。文学史に残る伝説の対面劇から作品比較、そして自死に至る結末まで、二人の関係の深層を紐解きます。

【伝説の対面】うなぎ屋の会談で放たれた「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」

太宰治三島由紀夫

昭和21年(1946年)冬、東京・三鷹。のちに編集者・作家として名を馳せる野原一夫らの引き合わせにより、当時21歳の新進気鋭の作家・三島由紀夫は、37歳の太宰治が仲間たちと酒を酌み交わしていたうなぎ屋「若松屋」の小上がりへ足を踏み入れました。

着流し姿で取り巻きに囲まれ、酒をあおる無頼派のカリスマ・太宰に対し、三島はスーツにネクタイを締め、どこか冷ややかな視線を投げかけていました。座が盛り上がる中、突如として三島が口を開きます。

「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」

凍りつく座敷の空気。誰もが息を呑む緊張感のなか、太宰は冷ややかに、しかしどこか見透かしたような柔らかな調子でこう返しました。

「そんなこと言ったって、こうして来てるんだから、好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」

青年らしい青臭い挑発を、太宰は老獪なユーモアでふわりとかわしてみせたのです。三島はこの会談を振り返り、太宰のその返答に苦々しい敗北感を味わったことを後に告白しています。この一度きりの対面が、文学史上に残る「確執」の決定的な幕開けとなりました。

【嫌悪の正体】三島由紀夫はなぜ太宰治をそこまで激しく批判したのか?

三島由紀夫による太宰批判は、終生を通して苛烈を極めました。エッセイ『作家論』や『私の遍歴時代』などでも、太宰文学に対する生理的とも言える拒絶反応を隠していません。三島が太宰を嫌った主な理由は、大きく3つの要素に集約されます。

第一に、「自己憐憫(自己憐憫と甘え)への軽蔑」です。太宰文学の根底にある「私はこんなにダメな人間だが、許してほしい」というポーズを、三島は作家としての自己管理の欠如であり、読者への甘えであると断じました。「冷水摩擦でもして体操をすれば治る病気だ」と切り捨てた言葉はあまりにも有名です。

第二に、「文体と構成力の決定的な違い」が挙げられます。太宰の語り口は口語体を生かした親密で情動的な告白調ですが、三島が追求したのは徹底して論理的で古典主義的な構築美でした。三島にとって、感情の垂れ流しに見える無頼派の筆致は美学的に許しがたいものだったのです。

そして第三に、心理学的に最も本質的とされるのが「強烈な同族嫌悪(鏡の心理)」です。三島自身、幼少期からの虚弱体質や内面的な屈折、破滅願望を抱えていました。三島はそれを知性と肉体改造(筋肉の鎧)で必死に抑え込んでいたのに対し、太宰はその弱さを無防備にさらし、しかも大衆から熱狂的な支持を集めていました。三島にとって太宰は「自分が最も隠したかった恥部」を公然と見せびらかす存在だったからこそ、過剰な拒絶反応を示さざるを得なかったのです。

【名作比較】『人間失格』と『金閣寺』に見る美学と破滅のベクトル

二人の文学的スタンスの違いは、それぞれの代表作である『人間失格』と『金閣寺』を並べると鮮明に浮かび上がります。

太宰治の遺作となった『人間失格』(1948年)は、他者への恐怖から道化を演じ続け、やがて破滅へと滑り落ちていく男の手記です。そこには「恥の多い生涯を送って来ました」という有名な一節に象徴される、赤裸々な魂の解体が描かれています。読者は主人公・葉蔵の弱さに自己を投影し、深い共感と救済を見出します。

一方、三島由紀夫の金字塔『金閣寺』(1956年)は、吃音と醜さに苦しむ学僧・溝口が、美の絶対的象徴である金閣を放火・全焼させるまでの心理を冷徹な筆致で描き出します。弱さやコンプレックスを出発点としながらも、結末で選ばれるのは自己憐憫ではなく、「美を滅ぼすことによる生の獲得」という能動的な破壊でした。

弱さに身を委ねて沈み込んでいく太宰の「受動的な破滅」に対し、観念を武器に美と心中しようとする三島の「能動的な決起」。日本文学の双璧をなす二作は、人間の暗部を描きながらも、ベクトルが完全に対極を向いています。

【死生観と最期】玉川上水の入水と市ヶ谷の自決――二人が選んだ「死」の真相

太宰治と三島由紀夫の関係性を語る上で避けて通れないのが、両者の「自死」という結末です。

太宰は昭和23年(1948年)6月13日、愛人の山崎富栄とともに玉川上水へ身を投げ、38歳の若さで命を絶ちました(遺体発見は太宰の誕生日である6月19日・桜桃忌)。度重なる自殺未遂の果ての入水心中は、まさに生きることの疲弊と諦念がもたらした「崩壊の帰結」でした。この報を聞いた三島は、太宰の死を批判しつつも、深い衝撃を受けたとされています。

それから22年後の昭和45年(1970年)11月25日、三島由紀夫は主宰する「楯の会」の隊員とともに自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入。バルコニーでの演説ののち、45歳で割腹自決を遂げました。自らの肉体を極限まで鍛え上げ、劇的な舞台装置を整えて決行された死は、徹底して演出された「美学の完成」でした。

太宰が「生に耐えかねて死へ滑落した」とすれば、三島は「老いと衰えを拒絶し、死によって自己を永遠の作品に昇華させた」と言えます。死に方においてすら、二人はどこまでも対照的な美意識を貫き通しました。

【文豪の確執の真相】近親憎悪の果てに見出した文学的共鳴

表面的には激しい批判を繰り返した三島ですが、晩年に近づくにつれて太宰に対する言及のニュアンスには微妙な変化が見られます。

三島は後年の随筆で、太宰の短編『駆込み訴へ』や『右大臣実朝』などの完成度を高く評価しており、太宰の卓越した文学的才能そのものを否定していたわけではありませんでした。むしろ、「太宰の持つ毒や弱さの誘惑」を誰よりも鋭敏に察知していたからこそ、自らがその毒に呑まれないよう激しく反発し続けたのが真相です。

文壇の太陽と月、あるいは鏡に映った表と裏のように、太宰治と三島由紀夫はお互いの存在を強烈に意識し合うことで、それぞれの文学を極限まで研ぎ澄ませていきました。二人の確執は、昭和という激動の時代が生んだ奇跡的な文学的共犯関係だったと言えます。

【太宰 治 三島 由紀夫】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:三島由紀夫が太宰治に直接「文学が嫌い」と言ったのは本当ですか?
A1:事実です。昭和21年冬、三鷹の小料理屋(うなぎ屋)で編集者・野原一夫らの仲介により対面した際、三島が直接言い放ちました。太宰は怒ることもなく「そう言いながら来ているんだから、好きなんだよ」と返し、三島を一本取ったというエピソードが残っています。

Q2:太宰治と三島由紀夫はその後、再び会う機会はありましたか?
A2:直接言葉を交わした公式な対面は、この一度きりだったとされています。その後、文壇の集まりなどですれ違う機会はあったものの、親交が深まることはなく、対面から約1年半後に太宰が玉川上水で自死しました。

Q3:三島由紀夫は太宰治の作品をまったく評価していなかったのですか?
A3:感情的な告白小説(私小説的傾向)は強く批判したものの、太宰の優れた構成力や文体感覚は認めていました。特に『駆込み訴へ』などの技巧的な作品や、女性の語り口を用いた短編に対しては、作家としての高い力量を評価する言及を残しています。

太宰治と三島由紀夫。一見すると水と油のように正反対の生き方を選んだ二人ですが、その創作の根底にあったのは「人間の孤独」「美への執着」、そして「時代の激変に対する違和感」という共通の苦悩でした。

自らの弱さをさらけ出すことで魂の救済を求めた太宰の言葉と、強靭な知性と美学で虚無に立ち向かおうとした三島の言葉。どちらが優れているかという優劣ではなく、人間が抱える二つの極限の生き様として、彼らの残した作品と確執のドラマは、今なお色あせることなく私たちを魅了し続けています。

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白石 ひなた
トレンドリサーチャー 白石 ひなた
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芸能・エンタメ取材7年。一次情報は事務所の公式リリースと本人の公式SNSに限定し、報道だけの情報は複数媒体の一致を確認してから扱います。

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