昭和文学史における最大のハイライトとして、今なお多くの読者を惹きつけてやまないのが三島由紀夫と太宰治の直接対決です。戦後まもない東京の片隅で、当時まだ無名に近かった21歳の三島が、当代随一の人気作家であった太宰の眼前で放った決定的な一言は、単なる若者の不躾な生意気さではなく、のちの日本文学を二分する思想的衝突の号砲でした。
退廃と無頼のなかで自己の弱さを告白し続けた太宰と、徹底した肉体鍛錬と構築美によって精神の絶対性を追求した三島。二人の間に横たわっていた確執の真相とは何だったのか。当時の同席者の証言や残されたテキストから、激突の背景にある文学観の決定的な違いを紐解きます。
「僕は太宰さんの文学がきらいなんです」伝説のうなぎ屋対面の全貌
運命の遭遇が起きたのは、敗戦の傷跡が色濃く残る1946(昭和21)年11月のことでした。場所は東京・新橋の路地裏にあった小料理屋(うなぎ屋とも伝えられる酒席)。文芸評論家の亀井勝一郎を囲む席に、飛ぶ鳥を落とす勢いだった太宰治がおり、そこに知人に連れられて現れたのが、東京帝国大学の学生でありながら作家としての頭角を現しつつあった21歳の三島由紀夫でした。
かすりの着物に袴という異様な装束で現れた三島は、緊張で張り詰めた面持ちのまま、一座の中心にいた太宰を凝視します。そして酒宴の最中、正面から太宰を見据えてこう言い放ちました。
「僕は太宰さんの文学がきらいなんです」
その場の空気が凍りつくなか、太宰は虚を突かれたように一瞬沈黙したあと、苦笑いを浮かべながら隣の編集者に視線を泳がせ、こう返しました。
「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」
当時新潮社の編集者としてその場に同席していた野原一夫の回想(『回想 太宰治』など)によると、三島は太宰の軽妙ないなしに対してそれ以上言葉を継ぐことができず、敗北感に近い屈辱を抱えてその場を立ち去ったとされています。冷徹な批判を試みた青年三島に対し、太宰は百戦錬磨の人間観察眼で「わざわざ会いに来る行為そのものに含まれた愛憎」を見透かしていたのです。
三島由紀夫が太宰治を嫌った3つの決定的な理由と心理
三島由紀夫はなぜ、そこまであからさまに太宰治を嫌悪したのでしょうか。のちに三島自身が著書『私の遍歴時代』や文芸評論などで語った分析を整理すると、単なる作風の好悪を超えた3つの本質的な理由が浮かび上がってきます。
第一に挙げられるのが、太宰文学の根底にある「自己憐憫(甘え)と被害者意識」への生理的拒絶です。太宰は自身の弱さ、罪深さ、恥の意識を告白することで読者の共感を誘う手法を得意としました。しかし、貴族的な精神の高貴さと厳格な自己律律を尊ぶ三島にとって、傷口を自ら見せびらかして同情を買うような態度は、耐えがたい道徳的頽廃に映ったのです。
第二の理由は「肉体と行動の欠如」です。三島は「冷水摩擦や体操で治るような精神の病を、大げさに文学の主題に仕立て上げている」と手厳しく指摘しています。健康な肉体の鍛錬を怠り、病弱や破滅をファッションのように消費する太宰のポーズを、三島の怜悧な知性はペテンとして退けました。
第三の理由は、逆説的ですが「隠しきれない近親憎悪」でした。自己の内面を過剰に意識し、道化を演じずにはいられない自意識過剰の構造において、三島と太宰は驚くほど似通っていました。太宰という鏡に映る「自らの影」を見せつけられる不快感こそが、激しい拒絶反応の原動力だったと分析されています。
『斜陽』と『人間失格』への辛辣な批判|自己憐憫への徹底的な拒絶
太宰治の代表作である『斜陽』や『人間失格』に対し、三島は極めて手厳しい批評を残しています。没落貴族を描いた『斜陽』について、三島は貴族の言葉遣いや立ち居振る舞いの描写がデタラメであると徹底的に論難しました。学習院出身で本物の華族社会を知る三島から見れば、太宰が描く貴族像は「庶民が妄想した安っぽい貴族趣味」に過ぎず、リアリズムとしても美学としても到底容認できないものだったのです。
また、太宰の遺作となった『人間失格』についても、主人公・葉蔵が吐露する「恥の多い生涯を送って来ました」という有名な述懐を、巧妙に計算された自己弁護として切り捨てています。太宰が弱者の仮面をかぶることで免責されようとする姿に、三島は作家としての欺瞞を嗅ぎ取っていました。
三島にとって文学とは、無防備な告白の垂れ流しではなく、完璧な言語空間と論理によって構築される建築物でなければならなかったのです。
太宰治は三島由紀夫をどう見ていたのか?見抜かれていた「同族嫌悪」の影
一方の太宰治は、三島由紀夫をどのように認識していたのでしょうか。対面時の「そんなこと言ったって、好きだから来たんだろ」という言葉に象徴される通り、太宰は三島が放つ敵意の裏に、強烈な関心と憧憬が潜んでいることを瞬時に見抜いていました。
太宰にとって、わざわざ絣の袴を着込んで緊張しながら文句を言いに来る三島の姿は、かつて自分が若き日に芥川龍之介や志賀直哉に対して抱いていたような「自意識をこじらせた文学青年の青さ」そのものでした。太宰のあたたかみを含んだ嘲笑は、三島の武装を根底から無力化する一撃だったと言えます。
二人の確執は、一方が他方を一方的に嫌っていたというよりも、精神の深層にあるナルシシズムと破壊衝動の同質性を察知していたからこその衝突でした。太宰は三島を嫌う必要すらなく、ただその若さと痛々しさを包み込むようにして煙に巻いたのです。
『金閣寺』と自決に至る美学|正反対の結末を選んだ二人の文豪
対面から2年足らずの1948年6月、太宰治は玉川上水で入水自殺を遂げました。この死に際しても、三島は「太宰の自殺は甘ったれた性格破産者の末路であり、英雄的な死ではない」と冷酷な論評を浴びせています。
しかし運命の皮肉というべきか、太宰を激しく否定した三島自身もまた、1970年11月25日の市ヶ谷駐屯地において、自決という劇的な死を選びました。
この二人の結末の違いは、名作『金閣寺』と『人間失格』の対比にも鮮明に現れています。
- 太宰治の軌跡:『人間失格』で徹底的な自己無力化と脱力へ向かい、濁流に身を投じる「受動的な破滅」を選んだ。
- 三島由紀夫の軌跡:『金閣寺』で美の絶対的結晶を構築した末に、鍛え上げた肉体と割腹という形式美によって「能動的な死」を演出した。
死のあり方においてすら、太宰のウェットな情死を徹底的に嫌悪した三島は、極限までドライで劇的な死の儀式を自らに課しました。太宰治という強烈な反面教師が存在したからこそ、三島由紀夫の「行動と肉体の美学」は極限まで先鋭化されたと言えます。
【三島由紀夫と太宰治】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:三島由紀夫が太宰治に「嫌い」と言ったのは本当ですか?実話ですか?
A1:事実です。1946年11月、評論家・亀井勝一郎を囲む新橋の小料理屋の席で起きた出来事であり、現場にいた新潮社の編集者・野原一夫や三島本人がそれぞれの回想録で詳しく書き残しています。
Q2:二人はその後、再び会う機会はあったのでしょうか?
A2:直接対話をしたのはこの一度きりでした。その後、太宰が1948年に38歳で自決したため、両者が再び相まみえることはありませんでした。
Q3:三島由紀夫は太宰治の作品をまったく評価していなかったのですか?
A3:基本的には批判的でしたが、太宰のずば抜けた文章の巧さやユーモアの才能、大衆を惹きつける文学的嗅覚の鋭さについては、警戒感を交えつつその力量を認めていました。
三島由紀夫と太宰治――この二人の巨人が交わしたわずか数分の対話は、日本近代文学が抱え込んだ「告白と構築」「弱者と強者」「生の倦怠と死の美学」という根源的な対立を鮮やかに浮き彫りにしました。
太宰の残した泥臭いまでの人間愛と弱さの肯定は、傷ついた現代人の心に今も寄り添い続けています。一方で三島が追求した厳格な知性と肉体の構築美は、妥協を許さない魂の気高さを提示し続けています。正反対の極北に位置する二人の文学は、互いを強烈に照らし合う鏡として、これからも色褪せることなく読み継がれていくはずです。