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光州事件とは?なぜ起きたのか真相と発砲命令・歴史の評価を解説

黒田 大河 黒田 大河 • 更新: • 公開: • 読了約 9 分
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映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』の世界的ヒットなどを通じて日本でも広く知られるようになった「光州(クァンジュ)事件」。1980年5月、韓国南西部の都市・光州で民主化を求めた学生や一般市民に対し、軍が武力行使を行った韓国現代史上最大の悲劇の一つです。

長年にわたり軍事政権下で「北朝鮮の扇動による暴動」と歪曲されてきましたが、現在は韓国の民主化を決定づけた「5・18民主化運動」として正当に位置づけられています。事件の背景には何があったのか、なぜ軍は市民に向けて発砲したのか、その全容と現在の評価を分かりやすく紐解きます。

【概要】光州事件(5・18民主化運動)とは?わかりやすく全体像を整理

光州事件とは

光州事件とは、1980年5月18日から27日までの10日間にわたり、韓国全羅南道光州市で発生した民衆蜂起と軍による流血鎮圧事件です。韓国では発生日にちなんで「5・18(オ・イルパル)」または「5・18民主化運動」と公称されています。

当時、軍の実権を握った全斗煥(チョン・ドファン)少将ら「新軍部」は全国に非常戒厳令を拡大。これに真っ向から反対した光州の大学生や市民に対し、軍は空挺部隊(特殊部隊)を投入して無差別に暴行・発砲を行いました。市民側も自衛のために武装して立ち向かいましたが、最終的に圧倒的な軍事力によって鎮圧されました。

国家権力が無辜の市民を虐殺した凄惨な事件でありながら、この出来事は韓国国民の心に深く刻まれ、軍事独裁を終わらせる民主化運動の強力なエネルギー源となりました。

【背景】光州事件はなぜ起きたのか?全斗煥の台頭と戒厳令拡大の経緯

事件の発端は、18年間にわたって独裁を敷いた朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の暗殺事件(1979年10月26日)にさかのぼります。独裁者の死により、韓国社会には民主化への期待感「ソウルの春」が広がりました。

しかし、混乱に乗じて実権を掌握したのが、国軍保安司令官だった全斗煥を中心とする新軍部勢力でした。彼らは同年12月12日に軍事クーデター(12・12粛軍クーデター)を起こし、実質的な軍の実権を掌握します。

民主化を求める学生や知識層のデモが全国規模で激化する中、新軍部は1980年5月17日夜、非常戒厳令を全国へ拡大。国会を閉鎖し、有力政治家(金大中氏や金泳三氏ら)を拘束・軟禁しました。翌5月18日朝、光州の全南大学正門前で戒厳令に抗議する学生たちと軍が衝突したことが、流血の10日間の始まりでした。

【経緯と真相】光州で何が起きたのか?孤立した街と市民の決起

5月18日、光州に送り込まれたのは、対ゲリラ戦の訓練を受けた第7空挺旅団でした。彼らはデモ隊のみならず、居合わせた通行人や高校生にまで棍棒を振るい、銃剣で突き刺すといった異常な暴力を展開しました。

軍の残虐行為を目の当たりにした光州市民は、自発的に抗議へ合流。タクシーやバスの運転手たちが車列を組んで軍の阻止線を突破しようとし、市民は警察署や予備軍の武器庫から銃器を奪取して「市民軍」を結成しました。

5月21日、激しい銃撃戦の末に市民軍は軍部隊を市外へ撤退させ、光州は一時的に「解放区」となります。市民たちは互いに食料を分け合い、献血に列を作り、治安を維持しました。しかし、外部との電話回線や交通網は完全に遮断され、街は孤立無援の状態に置かれます。

そして5月27日未明、新軍部は戦車と最新火器を投入した「忠正作戦」を発動。道庁に立てこもっていた市民軍の拠点を急襲し、わずか数時間で街を制圧しました。

【死者数と発砲命令】いまだ残る謎と全斗煥政権下のタブー

光州事件における最大の争点の一つが、正確な死者数と非武装の市民に対する集団発砲の命令者です。

当時の新軍部発表では死者数を「約190人(うち市民144人)」と極めて少なく公表していましたが、遺族会や市民団体は行方不明者を含めて数百人から数千人に上ると主張してきました。韓国政府の調査委員会による検証では、公式確認された関連死亡者・行方不明者は約240人、負傷者や拘束後の拷問後遺症による犠牲者を含めると関連被害者は数千人に達すると報告されています。

また、1980年5月21日に全羅南道庁前で市民に対して行われた一斉射撃について、現場指揮官を超えた「最高権力者からの発砲命令」が存在したのかどうかは長年追及されてきました。実権を握っていた全斗煥元大統領は、2021年に死去するまで自らの責任や発砲命令への関与を一貫して否定し続け、法廷での完全な真相解明には至っていません。

【映画『タクシー運転手』】実話に基づく世界が知った光州の真実

軍部が厳重な情報統制を敷き、国内メディアが「暴徒による騒乱」と虚偽の報道を繰り返す中、光州の惨状を世界に伝えたのがドイツ人記者ユルゲン・ヒンツペーターでした。

彼をソウルから光州まで乗せ、危険を顧みず取材を支えた韓国人個人タクシー運転手「金四福(キム・サボク)」の実話を描いた映画が、2017年公開の『タクシー運転手 約束は海を越えて』(ソン・ガンホ主演)です。

ヒンツペーターが命がけで持ち出したフィルムはドイツのニュース番組で放映され、全斗煥政権による残虐な弾圧の実態が初めて国際社会に暴かれました。映画のヒットは、事件を知らない若い世代や海外の人々が韓国現代史の暗部に目を向ける大きな契機となりました。

【現在の評価】「暴動」から「韓国民主化の原点」へ変わった歴史的位置づけ

事件後、全斗煥大統領率いる第五共和国時代において、光州事件を口にすることは重罪とされ、タブー視されていました。しかし、1987年の「6月民主抗争」によって大統領直接選挙制が勝ち取られ、文民政権へと移行する中で歴史的再評価が本格化します。

1995年には「5・18特別法」が制定され、全斗煥・盧泰愚の両元大統領は内乱罪などで法廷に立たされ有罪判決を受けました。1997年には5月18日が国家記念日に指定され、国立5・18民主墓地が整備されています。

さらに2011年、光州事件に関する記録文書はユネスコ「世界記憶遺産(世界の記憶)」に登録されました。現在では、不当な国家権力に対する民衆の正当な抵抗権の行使であり、今日の韓国における自由と民主主義の礎となった崇高な運動として定着しています。

【光州事件とは】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:光州事件と映画『タクシー運転手』の内容はどこまで実話ですか?
A1:ドイツ人記者ヒンツペーターが光州に潜入し、命がけで映像を世界へ届けた経緯や、タクシー運転手が検問をかいくぐって取材を助けた基本的なプロットはすべて実話に基づいています。一部のアクションシーンや脚色を除き、当時の緊迫した市内の様子や市民の連帯感は史実通りに描かれています。

Q2:全斗煥元大統領は光州事件について処罰されたのですか?
A2:1996年の一審で死刑判決、最高裁で無期懲役と追徴金の判決を受けました。後に大統領特赦で釈放されましたが、晩年も事件の被害者に対する謝罪を行うことはなく、発砲命令の有無など核心部分の完全な証言を拒んだまま2021年11月に死去しました。

Q3:なぜ光州という特定の地域でこれほど激しい衝突が起きたのですか?
A3:全羅道(光州を含む地域)は歴史的に歴代政権から経済的・政治的に冷遇されてきた背景があり、反独裁・民主化意識が極めて高い地域でした。加えて、民主化指導者であった金大中氏の出身地であったこと、軍部が抗議の芽を摘むために過度な残虐作戦を展開したことが、市民全体の怒りを爆発させる結果となりました。

光州事件(5・18民主化運動)は、単なる過去の流血事件にとどまりません。国家権力が武力で国民を制圧しようとした時、市民自らが立ち上がって自由を守ろうとした歴史の証拠です。

多くの無実な命が奪われた傷跡は今も遺族や市民の心に残っていますが、この凄惨な経験があったからこそ、韓国社会は軍事独裁を脱却し、強固な民主主義国家へと歩みを進めることができました。事件の経緯と教訓を正しく知ることは、現代を生きる私たちが自由と人権の重みを再認識する上でも極めて重要な意味を持っています。

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