高校の古典の授業で誰もが一度は目にする『徒然草』屈指のユーモア段、「丹波に出雲といふ所あり(第236段)」。高名な僧侶が神社の境内で見つけた“奇跡”に涙を流して大興奮したものの、最後は恥ずかしいオチで赤面するという、時代を超えて笑える痛快なエピソードです。
定期テストや大学入試の頻出エピソードとしても知られる本段ですが、単なる笑い話にとどまらず、兼好法師が鋭く見抜いた「人間の知ったかぶりや思い込みの滑稽さ」が凝縮されています。今回は、全文の現代語訳や品詞分解のポイントから、聖海上人を待ち受けていたオチの真相、さらには現代の舞台である京都府亀岡市の出雲大神宮まで、徹底的に深掘りして解説します。
【あらすじと背景】兼好法師が描く『徒然草』第236段の舞台と登場人物
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて書かれた随筆の傑作『徒然草』。作者の兼好法師(吉田兼好)は、世俗の人間模様を客観的かつ時にシニカルな視線で見つめ、数々の名文を残しました。
第236段「丹波に出雲といふ所あり」の主役は、京都の名刹・仁和寺の僧侶である聖海上人(しょうかいしょうにん)です。学徳の高い立派な僧として知られていた聖海上人が、秋の日に人々を誘って丹波国の出雲神社(現在の京都府亀岡市にある出雲大神宮)へ参詣したことから物語が始まります。
当時の仁和寺の僧侶たちは、『徒然草』第52段「仁和寺にある法師」でも有名なように、どこか世間知らずで早とちりしやすいキャラクターとして描かれる傾向がありました。本段でも、その「思い込みの激しさ」が見事なコントのように展開されます。
【原文と現代語訳】「獅子・狛犬背き合ひて」聖海上人の涙とオチの全貌
古典の授業や試験対策において、まずは原文のダイナミックな流れと現代語訳を照らし合わせて把握することが欠かせません。
【原文】
丹波に出雲といふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。しだのなにがしとかやしる所なれば、秋のころ、聖海上人、その外も大勢誘ひて、「いざ給へ、出雲拝みに。かいもちひ召させん」とて、具しもて行きたるに、各々拝みて、ゆゆしく信おこしたり。
御前なる獅子・狛犬、背き合ひて、後さまに立ちたりければ、上人、いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ち様、いと珍し。深きゆゑあらん」とて、涙ぐみて、「いかに殿原、殊異の事をご覧じ咎めずや。無下にいみじき奇特なり」と言へば、皆人めづらしがりて、「まことに他に異なりけり。都のつとに語らん」など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社の獅子の立てられ様、定めて習ひある事に侍らん。ちと承らばや」と言へば、神官、「そのことに候ふ。さがなき童べどものつかまつり候ひにけむ。あな、しれがまし」とて、寄りて、押し直して去にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。
【現代語訳】
丹波の国に出雲という場所がある。出雲大社を勧請して、立派に造ってある。志田の某とかいう人物が治める領地であるため、秋のころに聖海上人が他の大勢の人を誘って、「さあ、出雲神社へお参りに行きましょう。ぼた餅をごちそうしましょう」と言って、連れて行ったところ、各自が拝んで、並々ならぬ信仰心を起こした。
本殿の前にある獅子と狛犬が背中を向け合って、後ろ向きに立っていたので、上人はたいそう感動して、「ああ、素晴らしい。この獅子の立ち方は、本当に珍しい。深い理由があるのだろう」と言って涙ぐみ、「どうです皆さん、この特別な事にお気づきになりませんか。並外れて素晴らしい奇跡です」と言うと、皆も珍しがって、「本当に他とは違っていますね。都へのお土産話に語りましょう」などと言う。
しかし上人はもっと理由を知りたがり、年配で物をよく知っていそうな神官を呼び止めて、「この神社の獅子の据えられ方は、きっと特別な言われがあるのでしょう。少しお話を伺いたいものですが」と尋ねると、神官は「そのことでございます。いたずらな子供たちが仕業でございましょう。ああ、バカバカしい」と言って、近寄って元の向きに押し直して立ち去ってしまったので、上人が流した感動の涙はまったくの無駄になってしまったのだった。
【オチの真相】聖海上人はなぜ赤面したのか?神社の神官が明かした驚きの理由
この話の最大のカタルシスであり読者をクスリと笑わせるのが、神官のあまりにもあっさりした一言です。
聖海上人は、背を向け合って立つ獅子と狛犬を見て、「神の霊験による並々ならぬ奇跡(奇特)に違いない」と勝手に解釈を膨らませました。感動のあまり目に涙を浮かべ、同行者たちに「都への土産話にしよう」とまで誇らしげに語っていたのです。知恵者ぶって神社の神官に由緒を確かめに行ったところ、返ってきた答えは「さがなき童べどものつかまつり候ひにけむ(悪ガキどものいたずらでしょう)」という拍子抜けな現実でした。
神官は上人の思い込みや感動など露知らず、「あな、しれがまし(まったく愚かしい)」と吐き捨て、その場で獅子を『よっこらしょ』と前向きに直してスタスタと去ってしまいます。残された上人の気まずさと恥ずかしさは想像に難くありません。「上人の感涙いたづらになりにけり」という結びの一文は、兼好法師の鋭い皮肉とユーモアのセンスが光る見事な幕切れです。
【重要単語・品詞分解】テスト頻出の「しれがましきこと」や助動詞を徹底分析
定期テストや模試で高得点を狙うためには、頻出単語の意味と文法構造(品詞分解)を確実にマスターしておく必要があります。
■ 最重要古語・フレーズの現代語訳一覧
- ゆゆしく:シク活用形容詞「ゆゆし」の連用形。「並々ならぬ」「恐れ多い」「たいそう」の意。
- かいもちひ:名詞。「ぼた餅」のこと(仁和寺の法師が好んだとされる食べ物)。
- あなめでたや:感動詞「あな(ああ)」+ク活用形容詞「めでたし(素晴らしい・おめでたい)」の語幹。感動の表現。
- 奇特(きどく):名詞。「並外れて不思議なこと」「神仏の霊験・奇跡」。
- おとなしく:シク活用形容詞「おとなし」の連用形。「年配で落ち着いている」「大人びている」。
- さがなき:ク活用形容詞「さがなし」の連体形。「いたずらな」「質の悪い」。
- 童べ(わらべ):名詞。「子どもたち」。
- しれがましきこと(しれがまし):シク活用形容詞。「愚かしい」「バカげている」「ばからしい」。※神官が子供のいたずらを呆れて言った言葉。
- いたづらになりにけり:ナリ活用形容動詞「いたづらなり(無駄だ・役に立たない)」の連用形+完了の助動詞「ぬ」の連用形「に」+過去の助動詞「けり」。「無駄になってしまった」。
■ 文法・品詞分解の要点
「定めて習ひある事に侍らん」の文構造は頻出です。「定めて〜(らむ)」で「きっと〜だろう」という強意推量の呼応を作っています。「侍ら(ラ変動詞「侍り」の未然形)+ん(推量の助動詞「む」の終止形)」となっており、神官に対する丁寧な問いかけ(丁寧語+推量)を構成しています。
学校の定期試験で実際によく狙われる問題パターンを整理しました。ここを押さえておけば読解問題で取りこぼす心配はありません。
1. なぜ聖海上人は涙を流したのか?(心情記述)
【解答のポイント】背中を向け合って立つ獅子・狛犬の姿を、何か深いわけや神仏の素晴らしい霊験による珍しい奇跡だと思い込み、深く感激したから。
2. 「上人の感涙いたづらになりにけり」とはどういうことか?(状況説明)
【解答のポイント】獅子・狛犬が後ろ向きだったのは神仏の奇跡ではなく、単なる子供のいたずらだったと判明し、上人が感激して流した涙がまったく意味のない恥ずかしいものになってしまったということ。
3. 兼好法師がこの段を通して伝えたかったテーマは何か?(主題)
【解答のポイント】物事の一面だけを見て勝手に深読みしたり、よく知りもしないのに専門家ぶって早合点したりする人間の浅はかさや滑稽さに対する風刺。
【聖地巡礼】モデルとなった京都府亀岡市の「出雲大神宮」を訪ねる
『徒然草』に登場する「丹波の出雲」は架空の場所ではなく、京都府亀岡市千歳町に現存する出雲大神宮(いずもだいじんぐう)のことです。島根県の出雲大社と同じく大国主命(オオクニヌシノミコト)を主祭神とし、丹波国一之宮として崇敬されてきました。
一説には、島根の出雲大社へ分霊する前の「元出雲」とも称されるほどの古社で、現代では京都屈指のパワースポット・縁結びの神社として全国から参拝者が訪れます。
現在の境内にも立派な獅子・狛犬が鎮座していますが、もちろん互いに背を向けていることはなく、正面を向いて堂々と神域を守っています。古典の知識を持って現地を訪れると、約700年前にここで大恥をかいた聖海上人の姿が目に浮かぶような、一味違った歴史ロマンを体感できます。
【丹波に出雲といふ所あり】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:聖海上人はなぜ「かいもちひ(ぼた餅)」の話を持ち出したのですか?
A1:当時の僧侶や人々にとって、参拝のついでに食べる「かいもちひ(ぼた餅)」は大きな楽しみの一つでした。同行者を「ごちそうするから一緒に行こう」と誘い出すための口実として使われており、上人の人間味や俗っぽさが表れている描写です。
Q2:「しれがまし」の主語は誰ですか?誰が誰に対して言った言葉ですか?
A2:神官が、いたずらをした「子供たち(童べ)」に対して放った言葉です。「子供たちがいたずらをしたのでしょう。まったく愚かでバカげたことをするものだ」と呆れている場面であり、上人自身を直接罵倒した言葉ではありません。しかし、そのバカげたいたずらに本気で感動していた上人にとっては、間接的に大ダメージとなる痛烈な一言でした。
Q3:なぜ獅子と狛犬が動かせてしまったのですか?
A3:現代の大型石造狛犬とは異なり、当時の神社の獅子・狛犬は木製であったり、台座に固定されていない比較的小型の像であったため、いたずら盛りの子供たちでも力を合わせれば向きを変えることが可能でした。
『徒然草』第236段「丹波に出雲といふ所あり」は、ただの古典文学のテスト範囲にとどまらず、情報過多な現代を生きる私たちにも強い教訓を与えてくれます。
目の前の珍しい現象に対して、客観的な事実確認を怠り、自分の都合の良いストーリーや神秘的な意味をこじつけて早合点してしまう聖海上人の姿は、SNSなどで真偽不明の情報を鵜呑みにして拡散してしまう現代人の心理と重なる部分が少なくありません。
兼好法師が残したユーモアと鋭い人間観察の眼差しを味わいながら、重要単語や文法を整理して、定期テストや受験対策に万全の準備で臨んでください。