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駆逐艦「涼月」奇跡の後進生還と坊ノ岬沖海戦の真相|軍艦防波堤の現在

星野 楓 星野 楓 • 更新: • 公開: • 読了約 8 分
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太平洋戦争末期の1945年4月、戦艦「大和」と共に沖縄特攻作戦へ出撃した秋月型駆逐艦「涼月(すずつき)」。米軍機の猛攻によって艦首を失い、大火災と浸水に見舞われながらも、絶望的な状況から奇跡の生還を果たしたエピソードは、今なお海戦史上類を見ない不屈の記録として語り継がれています。

前代未聞の「後進(バック)航行」による佐世保への帰投、艦長・平塚清一中佐による冷徹かつ迅速な決断、そして戦後に北九州・若松港の「軍艦防波堤」として国土を守り続けた数奇な運命――。残された戦時日誌や証言から浮き彫りになる激闘の真相と、現代へと受け継がれるその魂に迫ります。

【防空の要】秋月型駆逐艦「涼月」の誕生と圧倒的な対空戦闘能力

涼月駆逐艦

昭和17年(1942年)12月、三菱長崎造船所で竣工した「涼月」は、日本海軍が航空優勢に対抗すべく建造した防空駆逐艦「秋月型」の3番艦です。従来の駆逐艦が魚雷戦を主眼に置いていたのに対し、秋月型は艦隊の上空を守る「直衛艦」としての任務を担っていました。

主武装として搭載された「65口径九八式10センチ連装高角砲」4基8門は、当時の世界水準を凌駕する長射程と高発射速度を誇り、九四式高射装置との連動によって高い対空命中精度を発揮しました。さらに電波探信儀(レーダー)を駆使した迎撃体制は、まさに帝国海軍屈指の防空プラットフォームでした。

しかし戦況の悪化に伴い、涼月は幾度となく米潜水艦の魚雷攻撃を受けて大破・艦首切断の憂き目に遭います。そのたびに驚異的な粘り強さで修理と復旧を繰り返し、最期の決戦の地である東シナ海へと向かうことになります。

【坊ノ岬沖海戦の激闘】戦艦大和沈没のなか「涼月」を襲った壊滅的打撃

1945年4月6日、戦艦「大和」を中心とする第二艦隊(第一遊撃部隊)は、沖縄への突入を目指す「天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)」へ出撃しました。護衛に就いた涼月も、第四十一駆逐隊として大和の左舷側を進出します。

翌4月7日昼過ぎ、米第58任務部隊の艦載機数百機が一斉に襲来。涼月は猛烈な対空砲火を展開するものの、前部主砲付近に大型爆弾1発が直撃しました。この一撃で一番・二番主砲は破壊され、前部弾薬庫は誘爆を防ぐために注水されたものの、艦橋前部が大破炎上し艦首が大きく沈下。速力は低下し、舵や羅針盤、通信機器のすべてが機能を喪失しました。

大和が業火に包まれ沈没していく中、涼月は黒煙を上げながら孤立。誰もが沈没を確信したほどの壊滅的被害を受けながらも、水線下の防水区画がかろうじて耐え抜き、艦そのものの命脈は途切れていませんでした。

【奇跡の真相】なぜ大破で帰投できたのか?前代未聞の「後進航行」と平塚艦長の決断

艦首が波に洗われ、前進すれば浸水が拡大して即座に沈没する――。この絶望的な局面で指揮を執っていたのが、艦長の平塚清一中佐でした。

平塚艦長は、機関室が無事であることを確認すると、迷わず「後進(バック)全速」を下令。船首が沈下している以上、艦尾側を先頭にして後ろ向きに走ることで浸水圧を極限まで減らすという、海軍史上でも前代未聞の操艦決断を下しました。

羅針盤が吹き飛んでいたため、日中は太陽の位置、夜間はわずかに見える星や風波の向きを手掛かりに見張り員が針路を指示。浸水を排水しながら、佐世保軍港までの約150海里(約280km)を後ろ向きのまま単独航行し続けたのです。翌4月8日午後、黒煙を吹きながら佐世保へ辿り着いた涼月の姿に、港内の将兵は息を呑み、奇跡の帰還に涙したと伝えられています。

【戦時日誌が語る凄惨】驚くべき戦死者数と艦内での壮絶な応急処置

後世に残された公式記録「戦時日誌」や戦闘詳報には、当時の涼月艦内の凄惨を極める状況が克明に記されています。直撃弾によって前部区画は一瞬で鉄屑と化し、指揮要員や砲手、応急員など戦死者は91名、戦傷者は数十名に達しました。

暗黒と化した浸水区画では、生存者が負傷者を担ぎ上げ、破損箇所に角材や毛布を詰めて必死の防水作業を展開。通信が途絶したため、伝令が血まみれの甲板を走り抜けて機関室へ指示を伝えました。奇跡と呼ばれる生還劇の裏側には、艦を沈めまいと持ち場を死守した乗組員たちの壮絶な戦いと犠牲があったのです。

満身創痍で佐世保に係留された涼月は、もはや本格的な修理を行う資材も時間もなく、そのまま終戦の日を迎えることとなりました。

【戦後の足跡】北九州・若松港の「軍艦防波堤」となった涼月の現在

終戦後、涼月は解体される運命にありましたが、その強固な船体は新たな使命を与えられます。戦後の荒廃した日本において、港湾の防護と復興が急務となっていた福岡県北九州市の若松港(現・響灘)に運ばれ、同型艦の「冬月」、白露型駆逐艦「柳」と共に海へ沈められ、「軍艦防波堤」として再利用されたのです。

過酷な日本海の荒波を受け止め、工業都市・北九州の発展を水際で支え続けた涼月は、現在では完全にコンクリートで覆われ、埋立地の一部となっています。現地には記念碑と慰霊碑が建立されており、かつて海を駆けた名艦の軌跡を偲ぶ多くの歴史ファンや遺族が訪れる聖地となっています。

【現代に受け継がれる魂】護衛艦「すずつき」への継承と「艦これ」人気

不屈の闘志を示した「涼月」の名は、現代の海上自衛隊にも受け継がれています。2014年に就役したあきづき型護衛艦の3番艦「すずつき(DD-117)」は、優れた防空能力(FCS-3A)を備えた最新鋭イージス護衛艦の僚艦として、日本の領海と空を守る任務に就いています。

また、ブラウザゲーム『艦隊これくしょん -艦これ-』においても、凛とした佇まいと高い対空性能を持つ艦娘として実装され、若い世代の間でもそのドラマチックな戦歴が広く知られるきっかけとなりました。過酷な運命に立ち向かった涼月の物語は、時代やメディアの垣根を越えて人々の心を惹きつけ続けています。

【涼 月 駆逐 艦】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:駆逐艦「涼月」はなぜ大破しながら沈没しなかったのですか?
A1:秋月型特有の堅牢な船体構造と充実した防水区画に加え、前部大破後に平塚艦長が「後進航行(バック走行)」を選択したことで前部からの浸水圧を防いだこと、そして乗組員による命がけの応急処置が重なったためです。

Q2:軍艦防波堤となった「涼月」は現在も見学できますか?
A2:福岡県北九州市若松区の響灘臨海工業団地内に「軍艦防波堤」として保存されています。船体そのものはコンクリートの下に埋設されていますが、隣接する緑地公園に案内板や慰霊碑、艦の遺構が整備されており、自由に見学・参拝が可能です。

Q3:護衛艦「すずつき」と旧海軍の「涼月」に関係はありますか?
A3:直接の艦体継承ではありませんが、艦名と「防空を主眼とする艦隊の守護神」というコンセプトが受け継がれています。護衛艦「すずつき」の艦内には旧海軍「涼月」にまつわる記念展示や史料も大切に保管されています。

戦艦大和の最期とともに語られる坊ノ岬沖海戦において、絶望的な損傷を負いながらも後進で帰還を果たした駆逐艦「涼月」。その生還劇は、卓越した操艦技術と諦めない精神が生んだ海戦史上の奇跡でした。

戦後は防波堤として国土を波浪から守り、現代では海上自衛隊の護衛艦として空の守りを担う「すずつき」。激動の時代を駆け抜けた一隻の駆逐艦の航跡は、平和な海を守る意志と共に未来へと語り継がれています。

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コンテンツディレクター 星野 楓
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