2015年夏の六代目山口組分裂以降、一連の抗争において最も激しい銃撃戦や内部対立の舞台となってきたのが、兵庫県尼崎市に本拠を置いた名門「古川組」です。2019年11月に起きた古川恵一総裁の白昼射殺事件は、自動小銃が用いられた凄惨さからも社会に強烈な衝撃を与え、組織の勢力均衡を根本から崩壊させました。
激動の分裂抗争と当局による包囲網を経て、三代目古川組の内部構造はどのような変遷を遂げたのか。幹部の顔ぶれや名跡を巡る争乱の真相、尼崎の本部事務所の現状に至るまで、取材記録と治安関係筋の最新データをもとに詳細を解き明かします。
【組織図の全貌】三代目古川組の幹部一覧と主要ポストの顔ぶれ

三代目古川組の組織図を読み解く上で避けて通れないのが、六代目山口組と神戸山口組の対立が生んだ「二重構造」と名跡の正統性を巡る内紛です。組織の中枢を担った幹部一覧には、激動の時期を生き抜いた実力者たちの名が刻まれています。
組のトップである三代目組長には、二代目体制下で若頭を務め傘下の琉真会を率いた仲村石松氏が就任しました。しかし、この継承は一枚岩の団結をもたらすものではなく、組織は親兄弟の盃を巡って真っ二つに割れる事態に発展します。六代目山口組直参への復帰を目指す陣営と、神戸山口組への忠誠を維持しようとする陣営がそれぞれ正統性を主張し、幹部の離脱や移籍が相次ぎました。
傘下には若頭、本部長、舎弟頭といった主要ポストが配備されたものの、相次ぐ抗争事件による構成員の逮捕・服役や引退により、実際の稼働体制は縮小を余儀なくされました。警察当局の把握する幹部名簿においても、かつての名門組織の威容とは程遠い少数精鋭化、あるいは組織の形骸化が進んでいます。
名門・古川組のルーツ|初代から二代目古川恵一総裁への継承
古川組の歴史は、昭和の武闘派として恐れられた初代・古川雅章組長によって築かれました。三代目山口組の全国進出期において武功を挙げ、激戦区であった尼崎市を拠点に盤石の地盤を確立。六代目山口組直参の重鎮として、関西裏社会で揺るぎない発言力を誇示していました。
その強大な地盤を引き継いだのが、初代の実子である二代目古川組・古川恵一組長(のちに総裁)です。名門の血統を受け継ぐ後継者として若くして直参に昇格したものの、2010年代に入ると資金獲得活動の難航や警察の頂上作戦による締め付けが厳しさを増し、組織運営には影が差し始めました。
カリスマ性を誇った初代の時代から一転、二代目体制は山口組の構造改革と組織統制の波にさらされることになります。この世代交代の摩擦こそが、後の大分裂において古川組が複雑な立ち位置を選択する根本的な火種となりました。
なぜ標的となったのか?山口組分裂抗争の経緯と銃撃事件の爪痕
2015年8月、山口組が分裂した際、二代目古川組は六代目山口組を離脱して神戸山口組の結成に参加しました。尼崎という要衝を押さえる古川組の参画は、神戸側にとって極めて大きな戦略的勝利とみなされていました。しかし、この決断が組織を血みどろの抗争の最前線へと引きずり込む結果となります。
離脱後、古川組幹部の襲撃事件が頻発。古川恵一総裁自身も度重なる襲撃や嫌がらせに晒され、精神的・物理的な孤立を深めていきました。神戸山口組内での立ち位置も次第に不安定となり、総裁ポストへの棚上げや引退騒動など、情報が錯綜する事態に陥ります。
そして2019年11月27日夕刻、尼崎市の居酒屋前で決定的な凶行が起きます。六代目山口組系元組員が米軍仕様の自動小銃M16を乱射し、古川総裁は全身に数十発の銃弾を浴びて即死しました。白昼の住宅街・繁華街で軍用ライフルが使用されたこの古川組事件は、日本国内の抗争史においても特異なニュースとして報じられ、事実上、神戸側における古川組の命運を決定づけました。
尼崎の本部事務所をめぐる攻防と特定抗争指定のインパクト
古川組の象徴であり、長年にわたり抗争の拠点と警戒されたのが尼崎市神田南通に構えられていた本部事務所です。阪神尼崎駅にほど近い商店街裏に位置し、住民にとっては日常的な脅威の対象であり続けました。
古川総裁射殺事件をはじめとする相次ぐ発砲・襲撃を受け、兵庫県公安委員会は暴力団対策法に基づく特定抗争指定暴力団の警戒区域に尼崎市を指定。本部事務所には厳格な使用制限命令が下され、組員の立ち入りが完全に禁じられました。
活動拠点としての機能を完全に奪われた結果、事務所は売却され、建物の解体工事が実施される運びとなりました。物理的な拠点の消滅は、周辺住民に安堵をもたらした一方、組織にとっては資金面・統制面での致命傷となり、名門組織の解体を加速させる決定打となりました。
指定暴力団の勢力推移と古川組における「現在の状況」
警察庁が公表する暴力団勢力推移の統計を見ても、古川組を取り巻く環境は激変しています。かつて数百人の構成員を抱えた大組織も、相次ぐ検挙、離脱者の続出、そして上部団体の勢力争いに翻弄され、現在の実働人員はごくわずかな水準まで落ち込んでいます。
三代目古川組の看板は形式上維持されているものの、独立した拠点を持つかつての勢いは存在しません。残存メンバーの一部は六代目山口組側の有力組織へと個別に移籍・合流を果たし、あるいは名跡争いに終止符を打って完全に裏社会から身を引く選択を取りました。
表立った事務所を持てず、活動の地下化が進んだ結果、かつてのように組織図として整然とした系統を維持することは困難となっています。名門・古川組が辿った軌跡は、全国的な暴力団排除の潮流と分裂抗争の末路を象徴する縮図となっています。
【三代目 古川 組 組織 図】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:三代目古川組の現在の組長は誰ですか?
A1:二代目体制で若頭を務め、琉真会を率いた仲村石松氏が三代目組長を継承したとされています。ただし、分裂抗争の中で六代目山口組側と神戸山口組側の間で名跡の扱いを巡り対立が生じたため、過去のような一枚岩の体制ではありません。
Q2:古川恵一総裁が射殺された事件の背景には何があったのですか?
A2:2015年の山口組分裂時に六代目山口組から神戸山口組へ移籍したことが根本的な対立要因です。尼崎という軍事・資金両面での要衝を押さえる古川組のトップを排除することで、神戸側の戦力を削ぐ狙いがあったと治安関係者から分析されています。
Q3:尼崎にあった古川組の本部事務所は現在どうなっていますか?
A3:度重なる銃撃事件や地域住民の排除運動、警察当局による特定抗争指定に基づく使用制限命令を受け、建物は民間へ売却された後に解体されました。現在は暴力団の拠点としては一切機能していません。
初代・古川雅章組長が築き上げ、関西裏社会で威名を轟かせた古川組の歴史は、分裂抗争という大きな時代の濁流に呑まれ、決定的な転換期を迎えました。二代目・古川恵一総裁の凄惨な最期と、それに続く三代目体制の混迷は、名門組織であっても抗争の激化と法執行の強化には抗えない冷厳な現実を物語っています。
本部事務所の消滅と構成員の著しい減少により、かつての姿を取り戻すことは現実的に極めて困難です。今後も組織の統廃合や地下化が進むとみられ、治安当局は残された関係者の動向や潜在的なトラブルの芽を注視し続けています。